最上稲荷

安心 心安らかに

最上稲荷について

 数多くの伝説とロマンを秘め、古代から豊かな文化を花開かせてきた吉備の国。雄大な造山古墳に代表される古墳群や、桃太郎伝説の舞台としても知られています。また備中国分寺・国分尼寺など数多くの寺社が点在し、戦国時代には羽柴秀吉の備中高松城水攻めの舞台となるなど、数多くの歴史物語に彩られた吉備平野。今なお豊かな野山が広がり、その風景は訪れる人々の郷愁を誘います。
 風光明媚なこの地にあって、1200年間、人々の営みを見守ってきた最上稲荷は、安心(あんじん)を与えるべく、祈祷と供養をもって、日々、世の平和と人々の幸せを願っています。
「安心(あんじん)こそは最上の幸せなり」-法句経より-
安心とは、法華経の信心によって得られる安定して不動なる境地を表します。いわゆる心の安らぎこそが、最上の幸せなのです。
 最上稲荷は、正式名称を「最上稲荷山妙教寺」という日蓮宗寺院ですが、明治の神仏分離令の際、特別に「神仏習合」の祭祀形態が許された、仏教の流れを汲む貴重な稲荷として知られています。お寺でありながら鳥居をそなえ、神宮形式をあわせ持つ本殿(霊光殿)があるなど神仏習合時代の形態を数多く残しています。

縁起

 いつの世も人々の想いを支えてきた、合掌の心。
 最上稲荷の歴史は、今から1200余年前にさかのぼります。 天平勝宝4年(752)、報恩大師に孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、龍王山中腹の八畳岩で祈願を行いました。すると白狐に乗った最上位経王大菩薩が八畳岩に降臨。大師はその尊影を刻み祈願を続け、無事天皇は快癒されたといいます。その後延暦4年(785)、桓武天皇ご病気の際にも、大師の祈願により快癒。これを喜ばれた天皇の命により、現在の地に「龍王山神宮寺」が建立されました。
 以来、「龍王山神宮寺」として繁栄を極めたものの、備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇を焼失し、本尊の「最上位経王大菩薩」のお像のみが八畳岩の下に移され難を免れました。このお像をもとに慶長6年(1601)、新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招き、霊跡を復興。寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎を築きました。
 伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷として、1200余年の歴史を紡いできた最上稲荷。祈祷本尊の「最上位経王大菩薩」は五穀豊穣、商売繁盛、開運など多くの福徳をそなえています。また脇神として、水の神さま「八大龍王尊」、開運を招く「三面大黒尊天」が最上尊とともに本殿に祀られ、最上三神と呼ばれています。その教えの基調となる合掌の心(お互いに拝み合い、いつくしみ合う心)は広く信仰を集め、「不思議なご利益をお授けくださる最上さま」として、今なお多くの人々に親しまれています。

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